弁護士三浦義隆のブログ

流山おおたかの森に事務所を構える弁護士三浦義隆のブログ。

「ラッキースケベ」はセクハラ描写といえるか

週刊少年ジャンプに連載中の「ゆらぎ荘の幽奈さん」という漫画の扉絵が話題になっているようだ。

このように批判的意見がツイートされ、それに対する反論も大量に出て、炎上の様相を呈している。

私はさほど興味がないから、以下のように茶化し気味のツイートだけして静観していた。

 

しかし、どうもTwitter上の議論を見ていると、論点が整理されておらず混乱しているように見える。

職業柄か、私は混乱した議論を見ていると気持ちが悪い性質なので、ちょっと真面目に考えてみることにした。

以下、本稿では、件の扉絵を批判する立場の人を「批判派」と呼び、件の扉絵を擁護または批判派を批判する立場の人を「擁護派」と呼ぶことにする。

 1.  エロ描写とセクハラ・性暴力描写は区別すべきだ

まず、エロ描写とセクハラ・性暴力描写は部分的には重なるが区別可能だし、今回のような件では考慮すべき論点が違うので、区別して議論すべきだということを確認しておきたい。

  • エロ描写については単純にその性的な露骨さの程度が問題となる。刑法上わいせつとまでいえない表現であっても、少年誌であることに鑑み自主規制の是非は別途考える事ができる。一般論として自主規制を肯定する場合には、どの程度の性的露骨さまでをセーフとすべきかの線引き問題となる。
  • セクハラ・性暴力描写については、「セクハラや性暴力を肯定的に描写してもよいか」ということが問題となる。一般論としてセクハラ・性暴力の肯定的描写をすべきでないと考える場合には、どのような描写が肯定的描写であるかが問題となる。

そこで、以下ではエロ描写とセクハラ・性暴力描写、両方の観点から考察する。

2.  エロの観点からは自主規制の線引き問題が主な争点

擁護派はエロの観点からのみ議論をしている人が多い。

そして、擁護派は「表現の自由」という大上段の議論をしたり、「エロ作品を少年にいくら見せても全く問題ない」との主張をしたりしている人が目立つ。

このような主張をする立場からは、

  • 少年誌であってもエロ表現についてゾーニングの必要はなく、少年誌が現に行っている程度の自主規制も不要である
  • いかに直接的で露骨な性行為などの描写が少年誌でなされたとしても、刑法上わいせつとされるレベルに達しない限り批判に値しない

と考える方が素直だろう。このような主張も論理的には明快だし、特段おかしくはない。

しかし、擁護派はそういうことまで言いたいのだろうか。おそらく大半はそうではないだろう。

擁護派の多くは、少年誌という性質を考慮した一定の自主規制は承認した上で、「この扉絵くらいの性的露骨さならセーフ」という判断をしているのではないだろうか。

そうすると、これは原理的な対立というより、妥当な線引きはどこかという話にすぎないことになろう。

そうであれば、あまり大上段の議論をする必要はないのではないか。

その上で、件の扉絵の線引きの妥当性について私見を述べると、「別にこのくらいよいのでは」というのが私の結論だ。

しかし、「これは少年誌でやってよい範囲を超えている。もっとソフト寄りに線を引くべきだ」という見解も当然あってよいし、そうした見解に基づいてジャンプを批判する人がいることは何ら問題ないと思う。

3. セクハラ・性暴力描写の無影響論は無理がある

エロと部分的には重なるが区別すべき論点として、「少年誌でセクハラや性暴力を(肯定的に・あるいは少なくとも否定的評価を伴わずに)描写することの是非」という論点がある。

「少年誌でセクハラ・性暴力を(肯定的に・あるいは少なくとも否定的評価を伴わずに)描写すべきではない」と主張する側は、セクハラ・性暴力の肯定的描写により青少年がセクハラをしてもよいと考えるなど、悪影響が生じるということを論拠にしている。

この主張に対して、擁護派は「悪影響などない(あるいは少なくとも現時点で実証されていない)」と反論するのが常だ。

たしかに、青少年の人格形成を歪めるといった長期的な悪影響については、大いに眉唾だと思う。

しかし、短期的な悪影響、いわゆる「子どもが真似をする」というやつについてはどうか。

思うに、このような短期的悪影響まで全面的に否認するのはさすがに無理があるのではないか。

私は今36歳だが、私が小学校低学年の頃には、『キン肉マン』に出てくる「パロスペシャル」などの危険な技を真似してやる子が少なからず出て問題になっていた。

私自身、幼稚園児の頃だが、『Dr.スランプ』のアラレちゃんにインスパイアされて路上に落ちていた犬のうんこを木の枝に挿し、これを友達につきつけて泣かせ、大目玉をくらったことがある。我ながら悪質な行為であったと思う。

セクハラに絞っても、昔の少年漫画には「スカートめくり」の描写がよくあった。

スカートめくりをされた相手の女性キャラは一応悲鳴を上げたりはするが、許されない侵害行為だというニュアンスでの描写は決してされていなかった。むしろ、挨拶代わりとか、罪のないちょっとしたいたずら程度の行為として描写されるのが常だった。

そして、現実にスカートめくりを行なう男児も大勢存在していた。

今ではスカートめくりについて、許されない侵害行為だという社会的合意があるといってよいだろう。スカートめくりをする男児もほぼいなくなったと聞く。そして、最近私は漫画をあまり読まないので断言はできないが、少年漫画におけるスカートめくり描写も、今は見かけなくなったのではないか。

現実に気軽に行なう人がいる行為だから漫画で気軽に描写されるという面もあるだろうし、漫画で気軽に描写されるから現実に気軽に行なう人が出るという面もあるだろう。

この点は相互作用であって一方的な因果関係にはないと思われるが、漫画→現実という方向の因果関係が全く存在しないと強弁するのはさすがに苦しいだろう。

このように悪影響を否定できないことから、「少年誌に掲載の漫画でセクハラを肯定的に(あるいは少なくとも否定的評価を伴わずに)描写してもよいか」という論点について、「描写すべきではない」という主張があるのは理解できる。

公権力による規制ならば賛成しかねるが、自主規制の範囲であれば、漫画においてセクハラの肯定的描写をしないことには私も賛成だ。*1

4.「ラッキースケベ」をセクハラ・性暴力描写というのは無理がある

批判派の中には、件の扉絵を、単なるエロの問題として批判しているというよりセクハラや性暴力の観点から批判している人が散見される。

女性キャラがその意に反して服を脱がされているからセクハラだ、というのである。

これは無理のある議論だと思う。

件の扉絵は、

  1. 主人公の男性キャラが、偶然にヒロインの乳房をわしづかみにする格好になってしまった
  2. パニック状態になったヒロインが特殊な能力を発動させてしまい、作中人物らが空中に放り上げられた
  3. 空中に放り上げられた弾みで作中人物らの水着が脱げてしまった状態を描いたものが件の扉絵

ということで、要するに偶然という設定になっているようだ。

このように、偶然という設定でエロ描写をすることを、「ラッキースケベ」と呼ぶようだ。

ラッキースケベという言葉こそ耳新しいが、風が吹いてスカートがめくれる、男性キャラが誤って女湯に迷い込んでしまうなどの描写は昔からよくある。

これは少年誌がエロ描写について自主規制をしているからこそ現れるものであろう。女性キャラが今からセックスをするので自主的に服を脱ぎますという描写をするわけにいかないからだ。

その結果、ラッキースケベは作中の女性キャラの意に反して起こることになる。

しかし、女性キャラの服を脱がせたりスカートをめくったりしているのは作者であって、作中人物ではない。

そして、スカートめくり描写などと異なり、この「作中人物がセクハラをしているわけではない」という点において、ラッキースケベ描写をセクハラ描写とみなすのは困難だと思う。

なぜならば、虚構作品の作者は、エロに限らず作者の都合で偶然の出来事をいろいろ起こし、それによって作中人物を苦しめたりもする。

例えば、作中人物が病気や事故で作者によって殺される例はいくらでもある。あれは作者が作中人物を死なせるために病気や事故といった偶然を案出しているわけで、ラッキースケベと構造は同じである。

作中人物が、別の作中人物によってでなく作者の仕組んだ偶然によって裸にされることがセクハラ描写にあたるなら、同様のロジックによって、作中人物の病死などは殺人描写とみなされることになる。

これはさすがに苦しい議論だろう。*2

5.まとめ

以上、長くなったが、論旨をまとめると以下のとおり。

  1. エロ描写とセクハラ・性暴力描写は区別可能だし、区別して議論すべきだ
  2. エロの観点からは、自主規制不要との立場もありうるが、少年誌であることを考慮し一定の自主規制を承認すること自体は概ね社会的合意が取れるのではないか
  3. エロ描写の自主規制を肯定するなら自主規制の線引き問題が生じるが、件の扉絵程度なら私はセーフだと思う。ただしアウトと考える人がいるのは理解できるし批判意見はあってよい
  4. セクハラ・性暴力描写の観点からは、これを肯定的に描写すると同様の行為を助長する悪影響があるというのが批判派の論拠だろう。人格形成といった長期的な悪影響については疑問だが、「子どもが漫画の真似をする」という短期的悪影響まで全面否定するのは、スカートめくり描写など過去の事例に鑑み無理がある→「セクハラ・性暴力の肯定的描写をすべきでない」という主張は、少なくとも自主規制にとどまる限り支持できる
  5. しかし、件の扉絵をセクハラ・性暴力描写とみなすことは困難

 結局、私の結論は、

  • 件の扉絵はエロの観点からは少年誌としてあるべき自主規制の範囲内にとどまっておりセーフ
  • セクハラ・性暴力描写の観点からは、そもそもそういう描写でないのでセーフ

 ということになる。

弁護士 三浦 義隆

おおたかの森法律事務所

http://otakalaw.com/

 

 

 

 

 

 

 

*1:ただしこの点については、数多くの少年漫画作品中で、暴力描写が普通に肯定的に行なわれていることとの均衡が問題となりうる。

もっとも暴力については、現実世界でも戦争や刑罰や正当防衛など適法に行なうことは可能だ。虚構作品においては現実世界と異なり正義の味方が暴走する危険性はないので、正義の味方が行使する暴力は全て刑罰や正当防衛などと同様に正当なものとみなしてよい。という説明は可能かもしれない。

なお、このような説明とは別に、実際問題として「セクハラ表現はやめても大きな支障はないのに対し、暴力表現をやめたら少年漫画は成り立たない」という身も蓋もない事情があるのは否めないだろう。

昔の少年漫画には普通に見られた未成年飲酒や未成年喫煙の描写は、今では姿を消してきている。このように「手を付けやすいところから手を付けている」という側面はあるだろう。

*2:もちろん、都合のよすぎる偶然をストーリーに組み込む作話技法に対する批判はありうる。件の扉絵に至る展開も、馬鹿馬鹿しいにもほどがあると思う。しかしこの観点からの批判はセクハラ・性暴力描写の観点からの批判とは異なる。