弁護士三浦義隆のブログ

流山おおたかの森に事務所を構える弁護士三浦義隆のブログ。

「ラッキースケベ」はセクハラ描写といえるか

週刊少年ジャンプに連載中の「ゆらぎ荘の幽奈さん」という漫画の扉絵が話題になっているようだ。

このように批判的意見がツイートされ、それに対する反論も大量に出て、炎上の様相を呈している。

私はさほど興味がないから、以下のように茶化し気味のツイートだけして静観していた。

 

しかし、どうもTwitter上の議論を見ていると、論点が整理されておらず混乱しているように見える。

職業柄か、私は混乱した議論を見ていると気持ちが悪い性質なので、ちょっと真面目に考えてみることにした。

以下、本稿では、件の扉絵を批判する立場の人を「批判派」と呼び、件の扉絵を擁護または批判派を批判する立場の人を「擁護派」と呼ぶことにする。

 1.  エロ描写とセクハラ・性暴力描写は区別すべきだ

まず、エロ描写とセクハラ・性暴力描写は部分的には重なるが区別可能だし、今回のような件では考慮すべき論点が違うので、区別して議論すべきだということを確認しておきたい。

  • エロ描写については単純にその性的な露骨さの程度が問題となる。刑法上わいせつとまでいえない表現であっても、少年誌であることに鑑み自主規制の是非は別途考える事ができる。一般論として自主規制を肯定する場合には、どの程度の性的露骨さまでをセーフとすべきかの線引き問題となる。
  • セクハラ・性暴力描写については、「セクハラや性暴力を肯定的に描写してもよいか」ということが問題となる。一般論としてセクハラ・性暴力の肯定的描写をすべきでないと考える場合には、どのような描写が肯定的描写であるかが問題となる。

そこで、以下ではエロ描写とセクハラ・性暴力描写、両方の観点から考察する。

2.  エロの観点からは自主規制の線引き問題が主な争点

擁護派はエロの観点からのみ議論をしている人が多い。

そして、擁護派は「表現の自由」という大上段の議論をしたり、「エロ作品を少年にいくら見せても全く問題ない」との主張をしたりしている人が目立つ。

このような主張をする立場からは、

  • 少年誌であってもエロ表現についてゾーニングの必要はなく、少年誌が現に行っている程度の自主規制も不要である
  • いかに直接的で露骨な性行為などの描写が少年誌でなされたとしても、刑法上わいせつとされるレベルに達しない限り批判に値しない

と考える方が素直だろう。このような主張も論理的には明快だし、特段おかしくはない。

しかし、擁護派はそういうことまで言いたいのだろうか。おそらく大半はそうではないだろう。

擁護派の多くは、少年誌という性質を考慮した一定の自主規制は承認した上で、「この扉絵くらいの性的露骨さならセーフ」という判断をしているのではないだろうか。

そうすると、これは原理的な対立というより、妥当な線引きはどこかという話にすぎないことになろう。

そうであれば、あまり大上段の議論をする必要はないのではないか。

その上で、件の扉絵の線引きの妥当性について私見を述べると、「別にこのくらいよいのでは」というのが私の結論だ。

しかし、「これは少年誌でやってよい範囲を超えている。もっとソフト寄りに線を引くべきだ」という見解も当然あってよいし、そうした見解に基づいてジャンプを批判する人がいることは何ら問題ないと思う。

3. セクハラ・性暴力描写の無影響論は無理がある

エロと部分的には重なるが区別すべき論点として、「少年誌でセクハラや性暴力を(肯定的に・あるいは少なくとも否定的評価を伴わずに)描写することの是非」という論点がある。

「少年誌でセクハラ・性暴力を(肯定的に・あるいは少なくとも否定的評価を伴わずに)描写すべきではない」と主張する側は、セクハラ・性暴力の肯定的描写により青少年がセクハラをしてもよいと考えるなど、悪影響が生じるということを論拠にしている。

この主張に対して、擁護派は「悪影響などない(あるいは少なくとも現時点で実証されていない)」と反論するのが常だ。

たしかに、青少年の人格形成を歪めるといった長期的な悪影響については、大いに眉唾だと思う。

しかし、短期的な悪影響、いわゆる「子どもが真似をする」というやつについてはどうか。

思うに、このような短期的悪影響まで全面的に否認するのはさすがに無理があるのではないか。

私は今36歳だが、私が小学校低学年の頃には、『キン肉マン』に出てくる「パロスペシャル」などの危険な技を真似してやる子が少なからず出て問題になっていた。

私自身、幼稚園児の頃だが、『Dr.スランプ』のアラレちゃんにインスパイアされて路上に落ちていた犬のうんこを木の枝に挿し、これを友達につきつけて泣かせ、大目玉をくらったことがある。我ながら悪質な行為であったと思う。

セクハラに絞っても、昔の少年漫画には「スカートめくり」の描写がよくあった。

スカートめくりをされた相手の女性キャラは一応悲鳴を上げたりはするが、許されない侵害行為だというニュアンスでの描写は決してされていなかった。むしろ、挨拶代わりとか、罪のないちょっとしたいたずら程度の行為として描写されるのが常だった。

そして、現実にスカートめくりを行なう男児も大勢存在していた。

今ではスカートめくりについて、許されない侵害行為だという社会的合意があるといってよいだろう。スカートめくりをする男児もほぼいなくなったと聞く。そして、最近私は漫画をあまり読まないので断言はできないが、少年漫画におけるスカートめくり描写も、今は見かけなくなったのではないか。

現実に気軽に行なう人がいる行為だから漫画で気軽に描写されるという面もあるだろうし、漫画で気軽に描写されるから現実に気軽に行なう人が出るという面もあるだろう。

この点は相互作用であって一方的な因果関係にはないと思われるが、漫画→現実という方向の因果関係が全く存在しないと強弁するのはさすがに苦しいだろう。

このように悪影響を否定できないことから、「少年誌に掲載の漫画でセクハラを肯定的に(あるいは少なくとも否定的評価を伴わずに)描写してもよいか」という論点について、「描写すべきではない」という主張があるのは理解できる。

公権力による規制ならば賛成しかねるが、自主規制の範囲であれば、漫画においてセクハラの肯定的描写をしないことには私も賛成だ。*1

4.「ラッキースケベ」をセクハラ・性暴力描写というのは無理がある

批判派の中には、件の扉絵を、単なるエロの問題として批判しているというよりセクハラや性暴力の観点から批判している人が散見される。

女性キャラがその意に反して服を脱がされているからセクハラだ、というのである。

これは無理のある議論だと思う。

件の扉絵は、

  1. 主人公の男性キャラが、偶然にヒロインの乳房をわしづかみにする格好になってしまった
  2. パニック状態になったヒロインが特殊な能力を発動させてしまい、作中人物らが空中に放り上げられた
  3. 空中に放り上げられた弾みで作中人物らの水着が脱げてしまった状態を描いたものが件の扉絵

ということで、要するに偶然という設定になっているようだ。

このように、偶然という設定でエロ描写をすることを、「ラッキースケベ」と呼ぶようだ。

ラッキースケベという言葉こそ耳新しいが、風が吹いてスカートがめくれる、男性キャラが誤って女湯に迷い込んでしまうなどの描写は昔からよくある。

これは少年誌がエロ描写について自主規制をしているからこそ現れるものであろう。女性キャラが今からセックスをするので自主的に服を脱ぎますという描写をするわけにいかないからだ。

その結果、ラッキースケベは作中の女性キャラの意に反して起こることになる。

しかし、女性キャラの服を脱がせたりスカートをめくったりしているのは作者であって、作中人物ではない。

そして、スカートめくり描写などと異なり、この「作中人物がセクハラをしているわけではない」という点において、ラッキースケベ描写をセクハラ描写とみなすのは困難だと思う。

なぜならば、虚構作品の作者は、エロに限らず作者の都合で偶然の出来事をいろいろ起こし、それによって作中人物を苦しめたりもする。

例えば、作中人物が病気や事故で作者によって殺される例はいくらでもある。あれは作者が作中人物を死なせるために病気や事故といった偶然を案出しているわけで、ラッキースケベと構造は同じである。

作中人物が、別の作中人物によってでなく作者の仕組んだ偶然によって裸にされることがセクハラ描写にあたるなら、同様のロジックによって、作中人物の病死などは殺人描写とみなされることになる。

これはさすがに苦しい議論だろう。*2

5.まとめ

以上、長くなったが、論旨をまとめると以下のとおり。

  1. エロ描写とセクハラ・性暴力描写は区別可能だし、区別して議論すべきだ
  2. エロの観点からは、自主規制不要との立場もありうるが、少年誌であることを考慮し一定の自主規制を承認すること自体は概ね社会的合意が取れるのではないか
  3. エロ描写の自主規制を肯定するなら自主規制の線引き問題が生じるが、件の扉絵程度なら私はセーフだと思う。ただしアウトと考える人がいるのは理解できるし批判意見はあってよい
  4. セクハラ・性暴力描写の観点からは、これを肯定的に描写すると同様の行為を助長する悪影響があるというのが批判派の論拠だろう。人格形成といった長期的な悪影響については疑問だが、「子どもが漫画の真似をする」という短期的悪影響まで全面否定するのは、スカートめくり描写など過去の事例に鑑み無理がある→「セクハラ・性暴力の肯定的描写をすべきでない」という主張は、少なくとも自主規制にとどまる限り支持できる
  5. しかし、件の扉絵をセクハラ・性暴力描写とみなすことは困難

 結局、私の結論は、

  • 件の扉絵はエロの観点からは少年誌としてあるべき自主規制の範囲内にとどまっておりセーフ
  • セクハラ・性暴力描写の観点からは、そもそもそういう描写でないのでセーフ

 ということになる。

京葉弁護士法人(おおたかの森法律事務所・佐倉志津法律事務所) 代表

弁護士 三浦 義隆

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*1:ただしこの点については、数多くの少年漫画作品中で、暴力描写が普通に肯定的に行なわれていることとの均衡が問題となりうる。

もっとも暴力については、現実世界でも戦争や刑罰や正当防衛など適法に行なうことは可能だ。虚構作品においては現実世界と異なり正義の味方が暴走する危険性はないので、正義の味方が行使する暴力は全て刑罰や正当防衛などと同様に正当なものとみなしてよい。という説明は可能かもしれない。

なお、このような説明とは別に、実際問題として「セクハラ表現はやめても大きな支障はないのに対し、暴力表現をやめたら少年漫画は成り立たない」という身も蓋もない事情があるのは否めないだろう。

昔の少年漫画には普通に見られた未成年飲酒や未成年喫煙の描写は、今では姿を消してきている。このように「手を付けやすいところから手を付けている」という側面はあるだろう。

*2:もちろん、都合のよすぎる偶然をストーリーに組み込む作話技法に対する批判はありうる。件の扉絵に至る展開も、馬鹿馬鹿しいにもほどがあると思う。しかしこの観点からの批判はセクハラ・性暴力描写の観点からの批判とは異なる。

山折りと谷折りが理解できなかった話

今回は法律とは関係のない話。

今朝、小学1年生の娘が本の付録の紙の工作を持ってきて、「パパ、やまおりってどっちに折るの?」と聞いてきた。

目の前で折ってみせ、

「こう折るんだよ。やまおりって書いてある線があるでしょう。これが山のてっぺんになるように折るのが山折り。反対に、線が谷の底になるよう折るのが谷折り。山折りも谷折りも折り方は一緒で、線がどっちに来るかの違いだよ」

と教えた。娘は納得したようだった。

この私の説明は、一般的にはやや過剰に見えるものだったかもしれない。普通は目の前で折ってみせるだけで直観的にわかるのかもしれないと思う。

しかし、私自身が、上のように言語化して理解できるまでは、山折りと谷折りの区別が付かなかった。

何歳までわからなかったか明確には覚えていないが、普通よりも遅く覚えたのは間違いない。

誰に教わったわけでもなく、あるときふと「山折りというのは線が山のてっぺんになるよう折り、谷折りというのは線が谷の底になるよう折ればよい」ということに気付いて、それ以降迷うことはなくなった。

山折りと谷折りという概念を理解したのと同時に、今まで理解できなかった理由もわかった。山折りも谷折りも折り方としては同じで、山を裏から見れば谷になる。指示の線がどちら側に来るかの違いでしかない。このことを誰も言葉で教えてくれなかったから理解できなかったようだ。

 

 私は、言語的な能力に比べて非言語的な能力がかなり低いようだ。

しかも不注意や多動の傾向も強いため、ADHDであろうと思っているが、確定診断を受けることはないまま36歳に至っている。

3、4年前、診察を受けてみようと思い立って病院に行ったことはある。

WAIS-Ⅲ式の知能検査を受け、言語性IQは140で99.6パーセンタイルとかなり高い数字が出たが、動作性IQは113で81パーセンタイルと凡庸な成績だった。

言語性と動作性で27も差がつくのは割と珍しいようである。言語性IQに比べて動作性IQが大きく低いことが多いのもADHDの特徴と聞いていたので、なるほどという感じだった。

3回ほど通院し、確定診断はもう少し継続的に診てからという話になっていたが、面倒になって通院をやめてしまった。だから上に書いたように確定診断は受けていない。

 

今思うと、山折りと谷折りがなかなか理解できなかったことも、私の能力の偏りが関係しているのだろうと思う。

私ほど極端ではないにせよ、娘にも私と同じ傾向を感じるときがある。

そこで娘に対しても、上述のように説明してみたのであった。

読者の中にも、子どもの頃に山折りと谷折りが理解できなかったという人はいないだろうか。

いたらブコメなどで教えてくれると嬉しい。

京葉弁護士法人(おおたかの森法律事務所・佐倉志津法律事務所) 代表

弁護士 三浦 義隆

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学部生よりも憲法が苦手な竹田恒泰氏

面白いツイートを見つけてしまった。

 

さすがに竹田氏も天皇の国事行為が形式的なものだということくらいは理解しているようだから、高校政経レベルの学力はあることがわかる。さすが名門慶應義塾高校出身だけあってなかなか優秀だ。

しかし、天皇の国事行為とされている行為について、その実質的決定権者に対し決定を「要求」することが不敬だという一般論が成り立つだろうか。

国事行為の代表格として衆議院解散が挙げられる(憲法7条3号)。

例えば2012年に衆議院解散があった。解散後の選挙で民主党から自民党政権交代したときの解散だ。

この解散に先立って、安倍晋三自民党総裁をはじめ自民党サイドが野田佳彦総理に対し解散を強く要求していたことは、竹田氏でもさすがに覚えているのではないかと思う。

これは不敬でけしからんことなのだろうか。そんなはずはない。2012年に限らず解散要求というのはよく行われてきたし、「国事行為だから」といってこれを問題視するような愚かな人は私の知る限りいなかった。

そもそも、国事行為について、その決定を要求する行為が天皇への不敬を理由に制約されるべきだと考えるならば、それは天皇が国事行為の実質的決定に影響力を持つことにほかならない。

それでは、せっかく天皇の政治的権能を否定し(憲法4条1項)、国事行為を形式的なものとして(憲法3条)、天皇の影響力を排除するとともに天皇を政治利用から守ろうとした憲法の趣旨が台無しではないか。

 

竹田氏といえば、以前こんなツイートもあった。

日本国憲法22条2項が国籍離脱の自由を定めているのはたしかだが、これを「日本人は勝手に日本人を辞めてよい」と解釈する人はいない。

「国籍離脱の自由は無国籍になる自由を含まない(したがって、外国籍を取得しない限り日本国籍を離脱できない)」という解釈が定説だからだ。

この定説に基づいて、国籍法13条も以下のように、外国籍取得を条件として日本国籍離脱を認めている。

国籍法 第13条  外国の国籍を有する日本国民は、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を離脱することができる。

2  前項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を失う。

憲法22条2項が無国籍になる自由を認めていないことは、法学部生でも普通に勉強していれば知っているべき知識だ。竹田氏については、表題のとおり「学部生よりも憲法が苦手」と評価して差し支えないだろう。

そのような人物が、一時期は憲法学者を名乗り慶應義塾大学で教鞭をとっていたのだから嘆かわしいことだ。

竹田氏を登用したのは憲法学者小林節氏だが、後に「週刊文春」の取材に答えて、「憲法学について勉強させるために講師にしましたが、その肩書が営業の看板に使われた」などと述べている。

勉強させるなら院生でいいだろう。勉強させるために講師にされては教わる学生も迷惑だ。

このように大学のポストを私物化しておいて、弟子に裏切られたという体で被害者っぽくコメントをする小林節氏の姿勢にも感心はしない。

探してみたら当時も私はこのようなツイートをしていたようだ。

京葉弁護士法人(おおたかの森法律事務所・佐倉志津法律事務所) 代表

弁護士 三浦 義隆

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事務所駐車場に無断駐車されたので賠償請求してみた

 

1.  度重なる無断駐車被害

私の事務所には、契約している駐車場が1台分だけある。来客が利用したり、私が車で出勤したときに停めたりする。

土日に出勤すると、しばしばここに無断駐車がされている。

平日の被害はほとんどないことから、「土日は休みだから誰も来ないだろう」という思い込みがあるのだろう。残念ながら弁護士は、むしろ土日も働くことが多い職種だ(本当に残念だ)。

さて、5月6日の土曜日に私が車で事務所に行ったら、また無断駐車がされていた。フォルクスワーゲンだった。

私は従来は、何度無断駐車をされても泣き寝入りしてきた。

しかし、このときは、ゴールデンウィークも仕事でむしゃくしゃしていたので、ふと、「他人には権利行使を勧める弁護士のくせに泣き寝入りを続けるのもよろしくないのではないか」という気持ちになった。

そこで私は、車の主に損害賠償請求をすることに決め、フォルクスワーゲンが駐車されている様子とナンバープレートを撮影した。

2.  弁護士会照会による車両所有者の特定

弁護士は、所属弁護士会を通じた照会によって、各種機関からさまざまな情報を取得す

ることができる。

この制度は、弁護士法23条の2に基づくもので、「弁護士会照会」とか「23条照会」とか呼ばれている。

この照会制度により、自動車のナンバーがわかっていれば、管轄の運輸支局に照会して、その自動車の所有者などの登録情報を取得できるのだ。*1

ただしこれはあくまで弁護士の職務のために照会する制度だから、私自身が被害者である事件について私が照会することはできない。

そこで同僚の弁護士に依頼し、代理人になってもらうことにした。

5月15日頃に千葉県弁護士会に照会申出書を出し、1か月強が過ぎた6月20日に回答があって、無事フォルクスワーゲンの所有者の氏名住所を知ることができた。

加害者は、私の事務所が入居するビルのマンション部分に住んでいる人だった。

3. 損害賠償請求

加害者が同じビルの住人と知って、「困ったな」というのが正直な感想だった。

「良き法律家は悪しき隣人」などということわざもあるが、弁護士でもご近所付き合いは多少は気にする。

あまり角も立てたくないが、今さら泣き寝入りするのも面白くない。

そこで以下のような方針を立てた。

  • 請求額は控えめにする。
  • 加害者に送る手紙の文面はソフトな文面とし、二人称も普段用いている「貴殿」ではなく「★★様」とする。
  • 内容証明ではなく特定記録郵便で送る。

この方針に沿って加害者宛の書面を作成し、6月23日に特定記録郵便で送った。

送った書面のPDFを貼っておく。個人情報を匿名化した点を除き、実際に送ったものと同じ内容だ。

結局、弁護士会照会手数料などの実費に、この件に費やした人件費相当額を加えて25,503円だけ請求した。

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4. 解決

6月29日、私が事務所を留守にしている間に加害者から電話があった。謝罪の言葉とともに、請求額満額の賠償の意思を示されたとのことだった。

そして、本稿を執筆している6月30日、25,503円が私の指定した口座に振り込まれた。

加害者が常識のある方で、円満に解決することができ、安心している。

5. 無断駐車対策はなかなか難しい

① 弁護士に依頼するのはコストに見合わない場合が多い

このように弁護士を使えば車両の所有者を特定して損害賠償請求をできるが、通常はコストに見合わないだろう。

日本の法制は懲罰的損害賠償を認めていないから、損害賠償請求により回収できるのは、被害者が実際に被った損害に相当する額だけだ。

そして、数時間程度の無断駐車で生じる損害額はたかが知れている。

さすがに1万円とか2万円で依頼を受けてくれる弁護士はいないだろうから、費用だけで足が出てしまう可能性が高いと思う。

では他に実効的な救済方法はないか。実はこれがなかなか難しい。

よくある無断駐車対策は、法的には無理なものばかりだからだ。

②予め定めた「罰金」を取ることはできない

駐車場に、「無断駐車は罰金★円いただきます」などと掲示されている例は大変よく見る。

しかしこれには法的根拠がない。

まず、駐車場の管理者が文字どおりの「罰金」を徴収する権限を持つかだが、これはあるわけがない。

文字どおりの「罰金」というのは、違法駐車した人の意思に関係なく、制裁のため一方的に取り立てる金銭のことだ。国家機関でもない駐車場の管理者が、そういう金銭を徴収する権限を持つということはあり得ない。

それでは、契約を根拠に徴収できないか。結論からいうとこれも無理だ。

契約の成立には、双方の意思の合致を必要とする。

無断駐車をする人は、まさに無断かつタダで駐車をする意思であることが明らかなわけで、無断駐車をする人と駐車場の管理者の間に契約が成立するということは考えられない。

 このように、駐車場の管理者は、無断駐車者から一方的に罰金を取ることもできないし、契約を根拠として取ることもできない。

結局、「無断駐車は罰金★円いただきます」との掲示はムダと結論するほかない。*2*3

③ 自動車を足止めするなどの実力行使もできない

タイヤをロックするなどの方法で自動車を足止めしてしまうという対策もよく聞く。実際、「無断駐車を発見したときはタイヤをロックします」などと掲示されている駐車場も散見される。

しかしこれも法的には無理だ。

日本に限らず広く法治国家においては、「自力救済の禁止」という大原則がある。

たとえ権利を侵害されたとしても、国家機関によらずに実力で権利回復をすることは許されないという原則だ。

自力救済は、原則的に違法行為とされる。

無断駐車の車をタイヤロックなどで足止めしてしまうというのは自力救済の典型で、完全に違法だ。

あべこべに損害賠償請求されることになりかねないから、絶対にやってはいけない。

足止めに限らず実力行使は違法だから気をつけよう。

④ まとめ

このように、無断駐車に対しては、適法かつ実効的な救済手段がなかなかない。

されてしまうと泣き寝入りになる可能性が高いので、予防に力を入れるのが賢明だろう。*4

 

京葉弁護士法人(おおたかの森法律事務所・佐倉志津法律事務所) 代表

弁護士 三浦 義隆

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*1:他にもいろいろできる。例えば、

  • 携帯電話の番号から契約者の氏名住所を照会する
  • 特定の人の生命保険の契約の有無・内容を照会する

など。

*2:「罰金」ではなく、「駐車した人は契約に同意したものとみなします。料金は★円」というような掲示なら契約を成立させられるのではないかとのブコメがいくつかあったので追記。結論から言うと、コインパーキングなどの時間貸駐車場でない限りそれも無理だろう。

契約は一方が「成立したものとみなす」と宣言すれば成立させられるものではない。あくまで双方の意思の合致が必要。

この点、時間貸駐車場ならば所定の方式によって駐車することで意思の合致と認められるが、そうでない駐車場(月極駐車場とか、誰かの専用駐車場とか)に「停めた場合は料金いくら」との掲示があったとしても、そこに敢えて停める人が時間貸契約の意思を有するとは解釈しにくい。あくまで無断駐車の意思しかないと考えるのが素直だろう。

この点、抜本的な対策として、駐車スペースに余裕があるなら「コインパーキングにしてしまう」という手は考えられる。コインパーキングにした上で、無料で利用させたい対象者だけ無料で利用させればよい。近年このような方法は、店舗駐車場などで実際によく採られている。

しかし、私の事務所の駐車場のように、あくまで専用駐車場として使いたいのであって不特定の人に自由に停められては困るケースだと、これも使えない。

*3:「当駐車場は1時間5000円で月極契約外の方も利用できます。どうぞご利用ください」などとよく見えるように掲示しておけば契約成立を主張できるのでは、というブコメもあったので追記の追記。これは契約成立を主張できる可能性はあるが、その代わりに月極契約者との関係で債務不履行になるから無理。料金をとりたいなら、最初から排他的利用は諦めて時間貸にする以外に方法はないと思われる。

*4:「警察に通報すれば警察が車の主に言ってくれて、どかしてもらえる」というブコメもいただいたので補足。「どかしてもらえる」というのは被害が拡大し続けることを防ぐ効果しかないのであって、権利を回復する効果はない。窃盗で例えれば、「盗品は返してもらえないが今後盗むのはやめてもらえる」に近い。だから本文には書かなかった.

私が無意識に自明なことと考えて省略していた事項にも法律家でない方は疑問や興味を持つことがあり、ブコメでこれに気付かされることが多い。いつも勉強になっている。ありがとうございます。

「任意同行」と欺いて署に連行し逮捕した事案の考察

また警察絡みで「これはひどい」という情報に接した。

毎日放送という関西のテレビ局が、昨日放送したニュース番組だ。 

リンク先の動画を要約しておく。

伊豆丸精二という人が電車内で痴漢の疑いをかけられて被害女性から腕をつかまれ、駅事務室に行ったところ、警察官がやってきた。

伊豆丸氏はICレコーダーで警察官とのやり取りを録音し、この録音が番組中で流されている。

警察署への同行を求められた伊豆丸氏は、「自分は現行犯逮捕されていないということでいいか」「任意の事情聴取のために警察署に同行するのか」ということを警察官に繰り返し確認した。

警察官は「そうです」などと答えた。

そこで伊豆丸氏が警察署に同行したところ、警察署にいた別の警察官は、伊豆丸氏に対し「あなたはもう逮捕されている」という趣旨のことを告げ、手錠と腰縄をかけた。

「話が違う」と抗議する押し問答の中で、警察官は「刑訴法上の話なんかどうでもええねん」とも言い放っている。

「警察官は偽証のプロであるという認識は多くの弁護士に共有されている」ということを先日のエントリで書いたが、より広く言えば警察官は「嘘のプロ」だ。それが裁判の場では偽証になるという話。

だから私は警察官の嘘など珍しいとも思わないが、任意同行といって同行しておきながら、「ざんねん実は逮捕でした」というのはあまりにもひどい。

ひどいのは間違いないが、これは法律的には微妙な問題を含んでいると思う。

この件は、警察官が駅事務室にやってきた当時、客観的にみて同氏が既に逮捕(私人による現行犯逮捕)されていたのか、それともされていなかったのかによって、法的な評価が大きく異なると思われる。

以下、場合ごとに分けて考察する。

1.  現行犯逮捕されていなかった場合

まず、伊豆丸氏が客観的には現行犯逮捕されているとはいえない状況だった場合を考えてみよう。

この場合は文句なしに逮捕は違法だ。

なぜならば、被害女性による現行犯逮捕がなされていなかった以上、後に警察署で手錠腰縄をかけるなどした警察官の行為を逮捕行為と見るしかない。

しかしこの時点では時間的にも場所的にも犯行から離れすぎているし、犯行を現認した人(被害女性)もその場にいないから、現行犯逮捕の要件はどう考えても満たさない。

現行犯逮捕の要件を満たさないのに逮捕するなら逮捕令状が必要だが、令状もない。

したがって、単なる違法な無令状逮捕ということになるからだ。

2. 現行犯逮捕されていた場合

一方、警察官が来た時点で、客観的には伊豆丸氏が現行犯逮捕されていたと評価できる状況だった場合はどうか。

すなわち、客観的には逮捕されているのに、警察官が誤って、あるいは故意に嘘をついて、「あなたは逮捕されていないから任意同行だ」と真実に反する発言をして連行した場合である。

この場合、仮に誤認逮捕であっても、通常は、被害女性による現行犯逮捕は適法だ。

適法に逮捕されている以上、逮捕後に警察官が「署に来て下さい。任意同行です」などの詐術的言動をしたからといって、適法だった逮捕が遡って違法になるとは考えにくい。

したがって、この場合は逮捕は適法と考えるのが素直だろう。釈然としない気持ちが残るのは否めないが、論理的にはそうなりそうだ。

3.伊豆丸氏の件は結局どちらか

以上、伊豆丸氏が現行犯逮捕されていた場合とそうでない場合に分けて論じてきたが、実際のところ同氏の事案はどちらなのか。

これは私も証拠を見ているわけではないから断定できない。

しかし、「女性から腕をつかまれた」「駅事務室に行った」などの伊豆丸氏自身の主張を見ても、私人による現行犯逮捕は完了していたという評価の方が素直なように思う。

そうすると、逮捕は適法だった可能性が高いように思われる。

しかし伊豆丸氏は、逮捕も勾留も違法だったとして国家賠償請求訴訟を提起済みのようだ。

私はテレビ放送の動画を見たにすぎない。当事者しか持っていない証拠も当然あるだろうから、この国家賠償請求訴訟の帰趨は正直わからない。

いずれにしても「警察官が任意同行であるとの虚言を弄して被疑者を同行させた挙句、結局逮捕した」という事案の司法判断がどうなるかは興味深い。

続報を楽しみにしている。

4. 【補足】誤認逮捕も適法な理由

「誤認逮捕であっても通常は適法だ」と上述した。

「誤認逮捕が適法なんてそんな馬鹿な」と思う人もいるかもしれないが、これは法の建て付けからすると当然の話である。

「無罪推定」という言葉を聞いたことがある人は多いと思う。被告人が有罪であるか否かは判決が確定して初めて決まるから、判決確定までは罪人として扱われないという原則のことだ。

誤認逮捕も通常適法とされるのは、この無罪推定に立脚する刑事訴訟制度から当然出てくる帰結である。

有罪か無罪かは裁判で初めて決まる以上、逮捕は被疑者が罪人であることを意味しない。むしろ、罪人か否かを決める裁判の準備をするために逮捕が必要とされるのだから。

したがって、真っ黒でなくてもある程度疑わしければ逮捕されることがあり得る。これは刑事訴訟法自身が予定している当たり前の話でしかない。

一般の方はこの点を勘違いしていて、「誤認逮捕は許されない」と素朴に思っているケースが多いように感じる。

京葉弁護士法人(おおたかの森法律事務所・佐倉志津法律事務所) 代表

弁護士 三浦 義隆

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弁護士にとって「相手方が弁護士をつけない」というのはどういうことか

日本の法律は、民事については弁護士を強制する制度をとっていない。だから交渉であれ裁判であれ、弁護士をつけずに自分でやることは自由だ。

紛争当事者の一方が弁護士を依頼すると、もう一方も不利になりたくないから弁護士をつけることが比較的多い。

しかし弁護士相手に自分でやろうとする当事者も珍しくないから、我々弁護士は、「相手方が弁護士でなく素人」という状況にけっこうよく遭遇する。

弁護士にとって、相手方が素人であることにはメリットもデメリットもある。

1.相手方が素人であることのメリット

相手方が素人であることの弁護士から見たメリットは、一言で

「相手が弱い」

に集約される。

相手方は素人だから何も知らない。法律も判例も、和解の相場も知らない。ネット等でいろいろ自分で調べてくる場合はあるが、素人は断片的な知識を仕入れてもこれを消化する能力がそもそもないから、ほとんど常に誤った理解しかしていない。

これはこちらが武器を持った状態で、手ぶら丸裸の相手をやっつけてよいと言われているようなものだ。大変有利な状況である。

ときどき「自分の依頼者の言い分ばかり聞いて、それでも弁護士か!けしからん!」というような突っかかり方をしてくる相手方がいるが、「それでも」弁護士なのではなくて、「それこそが」弁護士だ。

弁護士は中立な裁定者ではなく、当事者の一方の代理人である。相手が弱いならとことん弱みをついて、自分の依頼者に有利な解決を獲得するのが弁護士の責務だ。

だから、相手が弱い素人ならば有利になるから好都合。

このメリットは大きい。

これを当事者の側から見ると、相手方に弁護士がついた場合、一方的にやられたくなければ自分も弁護士をつけた方が無難ということだ。

2. 相手方が素人であることのデメリット

一方、相手方が素人であることの弁護士から見たデメリットは、一言で

「めんどくさい」

に集約される。

何しろ相手は素人だから話が通じない。法律論を言っても理解してくれないし、不合理な主張に固執するし、落としどころもわかっていないし、感情的になって電話でわめきちらしたりする。

このような相手との紛争は、どうしても紛糾しがちだし、長期化しがちだ。

双方弁護士がついての紛争は、判決まで行くよりも和解で解決するケースの方がずっと多い。

これは、「訴訟で最後までやった場合の判決内容をある程度の精度で予測でき、そこから逆算して落としどころを見いだせる」という弁護士の能力に依存している。*1

どちらかの当事者がこの結論予測能力を持っていない場合、最後までとことんやるしかなくなってしまう可能性が高まる。

だから、弁護士にとって素人相手の紛争は非常にめんどくさい。

もっとも、「相手が弱い」というメリットを充分に享受できるケースなら、いくらめんどくさくても許せる。我慢すれば最後によい成果を得られるからだ。

しかし、世の中には、どちらが勝つ案件かあまりにも明らかであるため誰がやっても結果が大きく変わらないような紛争も多い。(例として、借用証書などの証拠が完全に揃っている貸金返還請求訴訟とか、長期間にわたる賃料滞納の証拠が揃っている建物明渡請求訴訟とか。)

その種の紛争においては、相手方が弱いことによるメリットが小さくなってしまうため、めんどくさいというデメリットが前面に出てくる。

そういうときは、「あの相手方、頼むから弁護士つけてくれないかなあ」と思うのが正直なところだ。

これを当事者の側から見ると、誰がやっても結論が変わらないような案件であれば、弁護士をつけずに自分で処理すれば弁護士費用が節約できるから、自分でやるという選択も合理的になりうるということだろう。*2

実を言うと、当事者の一方だけが弁護士をつけない案件は、けっこうこのケースが多い。素人の側が負けるに決まっているケースだ。

このようなケースでは弁護士に相談に行っても「どうやっても負けますよ」と言われるから、それで依頼を断念する場合も多いだろう。

その結果、「どうやっても勝ち目はないのに不合理な主張に固執して延々争う素人」という、弁護士を困惑させる存在が生じる。しかし勝ち目のない事件である以上、それも本人にとっては一つの合理的な選択だからやむを得ない。

ただ、一般の方は、そもそも勝ち目のある事件かない事件か判断する能力を持っていないと思われるから、依頼するしないは別として、相手方に弁護士がついている紛争が生じたら、一度は自分も弁護士に相談してみるべきであろう。

京葉弁護士法人(おおたかの森法律事務所・佐倉志津法律事務所) 代表

弁護士 三浦 義隆

https://otakalaw.com/

 

 

 

 

 

*1:このように、双方の弁護士の事件に対する見立てがある程度一致するため和解の話が進みやすいという状況は、ともすれば依頼者から「自分の要望を充分に聞いてくれず相手方代理人と示し合わせて和解させようとしている」と誤解されるおそれがある。そのような誤解を受けることがないよう、弁護士としては事件の見立てを依頼者に丁寧に説明して、依頼者とも共有しておく必要がある。

*2:ただし自分でやれば時間と手間はかかるから、結論が変わらないとわかっていても弁護士に依頼して時間と手間を節約する手はある。

「国選弁護人は手抜きをする」は本当か

刑事事件について、「国選弁護人は手抜きをする」との風評が一部にある。

結論からいうと、この風評は誤っている部分が大きいが、全面的に誤りともいえない。

そこで簡単に解説しておきたい。

 

1.多くの弁護士は私選でも国選でも真面目にやる

1-1.国選でも私選でも手抜きはできない

「国選は手抜き」と聞くと、「同一の弁護士でも、私選は真面目にやるが国選は手抜きをするという使い分けをするので弁護の質に著しい差が生じる傾向がある」という意味にとる人が多いだろう。

このような傾向が一般的にあるかというと、答えはノーだ。

国選弁護の報酬はきわめて低廉だ。私選の場合の相場と比べると、ざっと3分の1~5分の1程度だろう。

したがって、国選弁護について収益業務という感覚を持っている弁護士はあまり多くないと思われる。よほど売上に困っている弁護士とか、勤務弁護士で事務所経費なども負担しておらず給与も保証されているためお小遣い感覚という弁護士を除けば、ボランティア感覚、滅私奉公感覚という人が多いだろう。

しかし、国選でも私選でも弁護人の義務に差はない。手抜きをして依頼者に損害を与えれば賠償責任が生じる場合もあるし、懲戒のリスクもある。

このように低廉な報酬で基本的には私選と同様の義務を負うのが国選だが、弁護士もそのことは承知している。

承知した上で国選弁護人の名簿に登録しているのだから、手抜きをしてはいけないし、私の観察の範囲では、実際に多くの国選弁護人は手抜きをしていない。

もっとも、一般論として「国選の場合だけ手抜きをする弁護士が多い」とはいえないとしても、一部にそういう不届きな弁護士がいる可能性までは否定できないが。

1-2. 付加的サービスに差がつくことはあるかも

上記のとおり国選でも手抜きは許されない。

しかし、弁護人が同一の人物なら国選と私選で全く差のないサービスを受けられるのかというと、必ずしもそうとは限らない。

弁護人としての義務とまではいえないレベルの、いわば付加的なサービスの部分について、私選の方を手厚くすることは許されると一般的に考えられている。

この点は弁護士ごとの方針にもよるから一概にはいえないが、例えば勾留中の被疑者から

「自宅に立ち入ってペットに餌をやってほしい」

とか、

「自宅に置いてあるキャッシュカードの暗証番号を教えるから、立ち入ってカードを回収した上、お金を下ろして示談資金にあててほしい」

とか頼まれた場合、弁護人としてはリスクが高いので断るという判断はあり得る。

そのような行為まで弁護人の義務として当然に行わなければならないとはいえないから、断ったとしても懲戒されたりする心配はないだろう。

このように弁護人だからといって必ず行う義務があるとまでいえない行為については、「国選なら断るが私選なら行なう」という判断の余地が出てくる。*1

繰り返すが、上記の例はあくまで例である。このような事項について全ての弁護士が差をつけているというわけでなく、最終的には個々の弁護士の方針による。

2.国選は弁護士を選べないのがリスク

上記のように、同一の弁護士に着目した場合には、少なくとも一般的には「国選だと手抜きをされる」とはいえない。

しかし、刑事弁護についてとんでもない手抜きをする弁護士が少なからずいるのは、残念ながら事実だ。

接見には全く、あるいは一度しか行かず、被害者がいる犯罪でも被害弁償のための交渉もせず、起訴されても保釈請求もせず、証拠が開示されても閲覧謄写もせず、公判の被告人質問では被告人に説教をするだけ、そして弁論では「寛大な判決を」と言うだけ。

そういう弁護活動をする弁護士は実在する。*2

 そして、国選弁護は登録弁護士の名簿から機械的に配点されるシステムになっているから、弁護士を選ぶことは当然できない。

たまたま一流の刑事弁護人が選任されるという幸運もあるかもしれないが、最低の弁護人が選任されるという不運もあるかもしれない。引いてみなければわからない。

この点においては、国選弁護は被疑者・被告人にリスクのある制度だ。

このようなリスクを避けたいのならば、好きな弁護士を選んで私選で依頼するしかない。*3

3.弁護士の良心に依存した制度は持続可能か

国選弁護の報酬がきわめて低廉であることは既に書いたが、絶対的に低廉というだけではない。

基本的に、国選の報酬体系は、「頑張れば頑張るほど損をする」ように設計されているのだ。

詳しい説明は、匿名弁護士の刑裁サイ太氏による

国選弁護事件で稼ぐ方法 - 刑裁サイ太のゴ3ネタブログ

がわかりやすいので参照いただきたい。同エントリは、国選を収益業務として考える場合には手抜きが合理的行動になってしまうことを指摘している。

このように国選弁護の報酬体系が、絶対的にも低い上に真面目にやるインセンティブを生じない(むしろ手抜きのインセンティブを生じる)ように設計されていても、現状では多くの弁護人が真面目にやっているのは前記のとおりだ。

これは多くの弁護士が、経済的インセンティブよりも職業的良心にしたがって行動しているからだ。

しかし、弁護士が大増員され、充分に仕事を取れない弁護士も少なからず出現している時代に、弁護士の良心に依存する制度がそのままで持続可能だろうか。

「国選弁護人は手抜きをする」が正しくなってしまうことが将来的にもないよう、報酬基準の見直しが必要だと私は考えている。

京葉弁護士法人(おおたかの森法律事務所・佐倉志津法律事務所) 代表

弁護士 三浦 義隆

https://otakalaw.com/

 

 

 

 

*1:私選の場合、委任契約の内容として盛り込んでしまえば、そのような行為を弁護人の義務とすることも可能。

*2:ベテランの弁護士に多いようだが、もちろんベテランが皆そうだというわけではない。

*3:一般の方に対して「国選でも私選でも弁護活動は基本的に変わらない(だから国選で差し支えない)」と強調する弁護士も少なからずいるが、この点において疑問だ。たしかに良心的な弁護士側から見ればそのとおりだが、依頼者側から見ると弁護士を選べないリスクはあるわけで、そのリスクを看過しているように思われる。